【自然の恵みを最大限授かった卵】
昔は、どの農家の庭先でも自給を主な目的とした自然養鶏が行われていました。従来の養鶏を「企業養鶏」と呼び、両者を比較しながら、自然卵養鶏の概要、そしてその真髄が語られていきます。
・紹介文
物価の優等生ともいわれる卵は技術の進歩と共に、増産、効率化が図られてきました。それは鶏自身の健康を損なうような、自然から隔離された養鶏を意味します。
バタリーと呼ばれる檻に閉じ込め、床はコンクリート、鶏舎に窓はなく、時間通りに自動給餌される餌はハイカロリーな完全配合飼料。産卵効率が低下してきた鶏はすぐに廃鶏となります。
著者の実践する自然卵養鶏は、大規模近代養鶏に共通するものは何も存在しない、と主張します。大自然の中で太陽と風を浴び、粗飼料と緑餌で育った鶏が生む卵こそ、私たち消費者は求めていくべきなのでしょうか。
本書を読むと、常日頃食べている卵への見方が一変すると思います。
・こんな人におすすめ
・自然卵に興味がある人
・アニマルウェルフェアに関心がある人
・自給的な、小規模循環農業に興味がある人
・要約 10の抜粋
自然循環型農業の一環として小羽数平飼い自給養鶏を採り入れるならば、いかなる事態に直面しようとも、大自然の続く限りそれは悠久の自立が可能である。
われわれは力を合わせて一羽でも多くの鶏を、「養鶏工場」の金アミの中から大地におろして、養鶏を農家の手にとり戻さなくてはならない
前にも言ったように、企業養鶏(あるいは商社養鶏)と農家養鶏との間には、共通するなにものを存在しないのである。
綿密な集約管理――人口コントロールといえば養鶏技術の最先端をゆくものとして聞こえはよいが、それは裏返せば大自然の恵みを拒否して、鶏に誤った過保護を強要し、鶏を弱体化することにほかならない。
農家養鶏が農家養鶏たるゆえんは、まずこの卵を大量に生産できないということが第一である。ベルトコンベア方式の大型養鶏と違って、われわれの農家養鶏は「手づくり」の養鶏である。一つ一つの卵に、農民と鶏の血が通っているのである。
農業は消費者を養うためにあるのではない。それは農業者自身の生命の糧を得るためにあるのである。
私は「給餌をする」ということは、「エサを与える」ということよりも、「鶏を見る」ということのほうが眼目でなければならないと思うのである。機械は「エサを与える」けれども決して「鶏を見る」ことはしないのである。
このあたりの兼合いが養鶏技術の奥の手ともいうべきところで、カボチャやイモをつつかせながら、また緑餌を鶏舎に放り込んでやりながら、それでも鶏が腹八分で、給餌のときには飛びついてくるような飼い方――これがまことの養鶏技術というものである。
企業化されてからの養鶏はとみにセチ辛くなり、卵をなるべく早くから産ませて、速やかに育成費を回収しようという傾向が強くなった。
ほんとうに自然であるためには、野鳥の卵を探して食うか、山菜や木の実、ヤマイモなどを採って、食うかするよりしかたないので、米やキャベツや鶏卵を食うのは「反自然」なのである。(中略)ではいったい、どこでその折り合いをつけ、どの程度人工を許容すべきか。私は「農薬や動物医薬品、飼料添加剤などを用いなくても飼養または栽培できる範囲内の人工はさしつかえない」ということにしているのである。私がこれまで「できるかぎり大自然の恩恵に浴す養鶏法」という表現をとってきたのはこの理由による。
・一言まとめ
大自然の中で健やかに育った鶏の産む卵、絶対においしいに決まっています! 外部の供給に頼らない、循環的な農業の可能性を感じます。